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                  高校(西高)時代浪人時代雑感

当時の都立西校はどんな学校だったのか。
西高はナンバスクールといわれた旧制中学(旧制十中)を前身に持つ高校で、日比谷や戸山と並んで
都立のトップクラスの進学校だった。
1964年(おじさんの時代よりはるか前のことです)は東大合格者156人で日比谷についで2位。
その後東京都に学校群制度が導入されて、日比谷は数年たたずあっというまに凋落して
しまい、西高も1970年前半までは80人程度の東大合格者をキープしていたが、1977年の53人(10位)
を最後にその後は50人を割り込んだ。
おじさんが入学したのはそんな頃。

当時はまだバンカラな気風が結構残っていて、
例えば、
・学園紛争時代のヘルメットが裏庭にころがっていたり、
・生徒会長に5名も立候補して、立候補者の演説で授業を全部つぶしたり(なかなか面白い演説
 が聞けて、これは楽しめた)、
・学校の目の前にある生徒がよく利用するパン屋で、(西校生と思われる)万引きが初めておこった時など、
 こんな生徒が出るようでは、生徒の自治の危機だ、ってなわけで、先生方による生徒指導の強化の
 機先を制して、自主的風紀改善運動が大々的に行われたり、
てな感じで、割と大人で自主自立した生徒が集まった学校だった。


もともとバンカラな気風に加え、各中学の学年1位の秀才などは有名私立に流れるようになっていたので、
どっちかというと、中学時代は成績は学年3番とか5番前後、でも生徒会長やってましたとか、部活の主将
でしたとか、リーダータイプが多く、生徒会はじめ学校行事のリーダーにはまったくこと欠かなかった。
ともかく、自主的に立候補する生徒が多かったので行事のリーダー役に困ることは皆無。生徒会の
立候補演説とかかなり激論が交わされて、それはそれで面白かった。
ひとクラスに中学時代に生徒会長、副会長やってたのが10人近くいて、ともかく前向き、自由闊達な雰囲気。
まさに、自主自立、自由闊達(夕日に向かって走れ的な)タイプが多く、勉強よりは部活や学園祭で盛り上がり、
青春を謳歌していた。

そんな気風で西高の同級生に会うと、ともかく高校時代は楽しかったという人が多い。
実際、すごくいい学校だったと思う。大学の時よりはるかに自由闊達、ポジティブな雰囲気で、
ちょっとこういう雰囲気の集団は他にはなかなかないと思う。
けど、必ずしも全員が楽しかったというかと言うと、イマイチ馴染めなかったという人もいて
おじさんは、どちらかというといまいち馴染めなかったほう。

文章書かせたらうまいし、スポーツできるし、あまりに才能豊かな同級生が多く、自分の存在意義を見いだせないとか
居場所がない感を感じていたひともいたはず。俺の居場所がないじゃん的な。

都立はみんなそうだが受験にはまったく鷹揚で、”傾向と対策”みたいなことにはみんな概して無頓着。
中学まではあまり勉強しないでも、なんとかなっちゃったタイプが多いので、高校もその延長線。
それゆえ現役合格はまれ、まさしく一浪と書いて”ひとなみ”と読むを地でいくような雰囲気。
現役合格目指して1年から真剣に勉強をしていたのは、クラスでも数名くらい。1年のうちから
駿台に通っていた同級生もいたけれども、「彼は青い目の外人」のような扱いだった。

とはいえ、各地域の秀才が集まっていて、中学の時の模試で、上位10以内の成績優秀者として
名前がのっていたような同級生もいて、ともかく成績優秀な連中の頭の良さは半端なかった。

年に2、3回、中間や期末とは別に校内テストというのがあって、学年で何番かはっきり順位が
でちゃうんだけれども、おじさんは1年の頃は400人中100番とかで、成績はまんなかあたりだった。


そんな気風のせいもあってか、おじさんも勉強については「本当に学力があれば傾向と対策は不要」という
信念のもとで、受験まで過去問を一問もやらなかった。うそみたいな話だけどホント。
ま、おじさんの思考回路のなかでは、こういうロジックだったわけ。
受験のための勉強=傾向と対策=受験が終われば忘れる=将来何の役にもたたない=無駄
無駄な勉強に時間を使いたくない。どうせ勉強するなら将来にわたって使える勉強をする、とこういう
わけ。結構、まともでしょ。

本物の学力って、なんか「本物の政治」に似ているかな。本物っていったって何が本物なのかわからないけど。

成績も真ん中くらいで、才能あふれる同級生に囲まれて、ちょっと俺の居場所ないと感じていたので、
少々はみだし気味の学生生活をおくりながら、本当の学力をつけるための(と自分では思っていた)勉強をやった。
本物の学力=基礎というか土台のところを徹底して勉強する、と言う感じだった。公式とかをまる暗記ではなく、
どうして、そういう公式が導けるのかみたいなところをきっちりやる。土台から地道に組み立てていく、そんな感じ。
だから、傾向と対策的な勉強はまったく無視していて、くどいけど過去問をいっさいやらなかった。
傾向と対策 ≠ 本物の学力 と考えていたので。

成績はちょっとづつ上がって、3年では理系文系に別れると、例の校内テストで3年時は文系の20番以内に
入るくらいまでにはなった。
ただ、得意科目は数学、理科で、社会はイマイチ(嫌いではなかったが、暗記したくないので)だったので、
理系にいってればまた違った展開だったかもと思う。
友人連中からも「あいつは100%理系に進むもの」と思われていたから、理系に行った友人たちからは
「脱落者」とか「文系に行くとは裏切り者」とか言われた。

理系から文系に転じたあたりの経緯や、その後どうリカバリーしたか(というか、最後までリカバリーせず、
社会は0点でもいい作戦)については、受験雑感に少し書いた。


で、当時は、ちょうど共通1次試験が始まったころで
共通一次試験はすこぶる好調だった。共通一次は比較的基礎的な問題しかでないので、
本当の学力をつけるための(と自分では思っていた)勉強でもまったくノープロブレム。
学校内でも並み居る天才・秀才をさしおいてかなりの上位の点で(あくまでも自己採点ですけどね)、
全国の順位も東大の合格者人数に十分入れるかも位の位置だったように記憶している。
友人達から「お前が合格しても、辞退して浪人生活につきあえ」とか言われて、「わかった。お前らに
つきあって、俺も浪人すっかなー」とお気楽な返事をしていた。(ま、現実を知るまえの幸せな時間)

東大2次試験。当時の西は東大を100人以上の同級生が受験していたので、そこかしこに知っている
顔がおり、受験というよりは、まあ、遠足のような気分。
「東京の進学校はありがたいなあ。」と思ったのを覚えている。試験後不出来をなぐさめあう友人がいるのは
ありがたいものだ、ということです。
「赤毛のアン」のなかで、アンがクイーン学園を受験する場面に、ひとつの科目が終わるたびに、
校舎の外でアボンリー出身の同級生みんなが輪になって、
「あれは難しかった。」
「あたし、もう全然だめ」
という会話をするシーンがあったが、まあ、そんな感じで、みんなで、出来ない、難しいと
言い合って自分の不出来をなぐさめあっていた。

結果だけいうと、本当の学力をつけるための(と自分では思っていた)勉強では、
2次試験はからきし歯が立たず、仲良く友達と浪人生活を送ることになった。
ぶっつけ本番で初めて東大の試験問題を見て、ちょっと圧倒された。


東大の試験は暗記とか解法パターンに頼ろうとするとものすごく難しく感じる。
しかし、日本史などは資料が与えられていてそれを基に考える問題が中心で、人物名やら詳細な
年号を暗記しておく必要はない。もっと深く本質的な部分を自分の頭で考えろ、というのが東大から学生
へのメッセージ。(日本史が一番良問が多いように思う)

本当の学力をつけるための(と自分では思っていた)勉強の方向性は間違っていなかったけれども、
もし、過去問をいくつかやってどういう力を求められているのか理解して勉強したら、もう少しなんとか
なったかもしれない。

浪人後もさらに2回失敗した。、二浪時は、共通一次試験と成人式が同じ日で、振袖姿の同級生
に混じって、ひとりだけ地味なコートを着て共通一次の試験会場に行くのが、しみじみみじめで
道中知り合いに会わないよう、ずっと下を向いていた。堂々としておればいいじゃん、と思うかもしれ
ないが(おじさんも元来あまりそういうことに拘泥しない性質ですが)、2年も浪人すると精神的に結構すさむ
もんなんです。(いとすさまじ)
さすがに、東大の試験会場でも同級生をほとんど見かけなくなり、この年はさんざんな成績に終わった。
(まあ、無理もない)

一時はうらぶれて犯罪者にでもなるのではないかと周りから心配されていたが、背水の陣の3浪目に
ようやっとすべりこんだ。現役で入った連中がもう4年生になるのだから、新入生として入学する
のはとても気恥ずかしくもあったが、逆にさばさばもした気持ちでもあった。

ちなみに、一浪目、二浪目、三浪目で実力的には大きな伸びはなく、一浪目、二浪目の失敗の要因は
はっきりしていた。
東大の2次試験は、英語、国語、社会が120点満点、数学80点満点の合計440点満点で、6割が合格
ライン(265点くらい)と言われているが、おじさんは社会がイマイチだったので、社会0点で、
英、数、国の3科目(320点満点)で合格点をとるといういささか無謀な作戦で挑み(いささかではなく、
めっちゃ無謀だよ)、一浪、二浪目は完ぺきを期しすぎて時間配分を誤りかなりの問題をやり残すという
失敗をしてしまった。
三浪目は目標を、とりあえず最後の問題まで書き終えるに切り替えて臨んだ、というのが成否をわけた。

当時、駿台の世界史には大岡氏という名物講師がおり、友人どもがみんな大岡氏の世界史はいいと
口ぐち絶賛していた。三浪目にあたっては、社会2科目を日本史・政経から日本史・世界史に切り替えた。
みんなが絶賛していた大岡氏の世界史を勉強してみたくなったからだ。政経はそこそこできていたので、
社会の中で一番ボリュームのある世界史に切り替えるのは無謀なチャレンジではあったが、少々政経に
飽きがきていたのもあり、世界史は0点でもいい覚悟でのぞんだ。
結果、世界史は得点源にはならなかったが、大岡氏から学んだことは多く、その後の社会人生活でも
役にたっている。
母の介護(余談)に駿台時代の模試の成績あり→社会の2科目目は7点しか取れてない。見たければどうぞ。
基本的に英数国だけで合格点狙う作戦の究極を行く。

ちなみに、共通一次の理科も、試験一週間前に物理を捨てることにし、地学に変更した。物理で現役で受けた
年にホイヘンスの定理を必要とする問題が出て(物理Tの範囲外のはず)嫌気がさしていたので。
地学は問題集を1冊買ってきて正月の間、ほとんど地学だけをやっていたが共通一時では90点以上は
取れたと思う。
三浪目はともかく全問書き終えることに徹したので、共通一次は世界史はあまり点がのびなかったが、
自己採点では930点くらい(1000点満点)いけた。


当時、本物の学力をつける勉強と称して試行錯誤していた勉強は、今から振り返ればがっちりした基礎力
をつけることができたので、ビジネスの世界でも役にたっている。そういう意味では間違っていなかった
ともいえる。
ビジネスマン30年の経験を振り返ってみると、高校までの勉強は歴史を柱に据えるのがいいと思う。
そのことは強制断舎利(格闘編)の駄文で少し触れた。


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